【社会】死の虚無は恐れるに足らず
「死ぬのはいつも他人ばかり」
このブログは公共の利益(The Greater Good)のために書いている。
このブログの記事が他人様の役に立てば、この上ない喜びである。
今回は、お盆にふさわしく、死ぬことの話をしたい。そして、僭越ながら皆さんをある種の死の恐怖から解放して差し上げたいと思う。
それはとても人々の役に立つ公共の利益(The Greater Good)に叶うことに違いない。
死ぬのは恐ろしいことだと多くの人は思っている。
その通りだ。私も死ぬのは恐ろしい。
私が思うに、死ぬのが恐ろしい理由は3つあると考える。
このうちの2つの理由は、容易に取り除くことは出来ない。
しかし1つだけは、私のように明確に取り除くことが可能である。
それを説明するために、まずは死の恐怖の分類から始めよう。
①死に至る痛みと苦しみ
死ぬときには身体の損傷や機能障害が伴う。それはとても痛く、苦しいものであるはずだ。
死ぬほど痛いというのは、死ぬほど嫌なことに違いない。
痛いのは怖い。単純明快で誰もが納得できる恐怖の理由だ。
私も死に至る痛みと苦しみの恐怖から解放されることはない。
この恐怖は死ぬ日まで続く。
ちなみに人間は極限の痛みを感じると、脳が痛みを遮断して苦痛を感じなくなる。
ひどく痛みつけられた人が、突然冷静になることがあるが、それはこの脳の作用によるものなのだろう。
ちなみに、この脳の作用を妨害し、死の直前まで激しい痛みを感じさせ続ける薬があるそうだ。
この薬の話が本当だとしたらひどい話である。
(以前にこの薬のことを調べたが見つけることは出来なかったので、この薬の存在は都市伝説かもしれない。)
②やり残したことが出来なくなる無念
多くの人は、卑近な雑事から遠望壮大な計画まで含めて、何かをしたいと思って生きている。
今晩は味噌ラーメンを食べよう。
来月に発売される小説が楽しみだ。
1年かけた仕事がもうすぐ終わる。
子供が大学を出るまで頑張って働こう。
老後は趣味の園芸を楽しもう。
死は、それら全ての未来を断絶させる。
それは無念なことだろう。
自分が生きて守らなければ、壊れてしまう大事なものを、多くの人が持っている。
それは、恋人、幼い子供、老いた両親かもしれない。
それは、自分がいないと成立しない仕事かもしれない。
それは、自分しか管理する人間のいない大事なコレクションや美術品かもしれない。
死は、それらの行く末を見守る権利を根こそぎ奪う。
それは未練なことだろう。
この恐怖を逃れるために、人は後事を託せる仲間、組織や集団を作る。
残された家族のことは、親戚や地域の福祉団体に託す。
残した仕事は、会社の同僚に託す。
残したコレクションは、同好の士に託す。
もっとも私は今は亡き先生に託されたものを、ほとんど守っていない。
不肖の弟子で申し訳ないことである。
人は自分の荷物を持っているのだから、他人の残した荷物をいつまでも預かってはいられない。
歴史を見れば分かる。周囲の人間を見れば分かる。本人の死と共に、本人の残したものが滅び、忘却された事例は五万とある。
死後、自分の思い通りになることは一つもない。
だから、私も計画をやり遂げられない恐怖から解放されることはない。
③死後の虚無もしくは死後の裁きの恐怖
魂や死後の世界を信じている人は、死後に偉大なる存在に裁かれることを恐れている。
魂や死後の世界を信じていない人は、死後に自分というものが完全になくなり、虚無に返ることを恐れている。
前者の恐怖は私には無縁なので、考察しない。
死後の世界を信じているならば、教義に沿って生きてさえいれば恐怖とは無縁だ。
私の知る宗教家、シスター、神父、神主、イスラム教徒、ユダヤ教徒は、死後に神の御許に行くことを誉れとしていた。
彼らとは異なり、魂を信じられない私のような人間は、死後の虚無への恐怖と向き合わないといけない。
死後、自分が消えて無くなるというのは、人生最大の未知だ。
それがどのようなものか想像もつかない。だから、それが恐ろしい。
何も見えない暗闇の中に飛び込むのは、いつだって恐ろしいことだ。
しかし、私はこの恐怖から解放された。
私に虚無への恐れはない。そして世界中のほとんどの人もまた、虚無の恐怖とは無縁なはずなのである。
実は虚無は未知でもなんでもない。既知なのである。誰もが生まれた時から常に経験しているのである。
虚無は未知であるが故に恐ろしいのに、種を知ってしまえば未知でもなければ、恐れるべきものでもない。
ただの雑魚だ。
「恐ろしいと評判の魔王の城に乗り込んだら、玉座に座っていたのがスライムだった」というのと同じくらいの拍子抜けだ。
結論から言うと、100年、200年、それ以上の昔に自分が生きていないことが恐ろしくないならば、将来に自分がいないことも恐れる必要はない。
何故なら過去の虚無と未来の虚無、この2つは同じことだからだ。
よって私たちは全員、自分が存在しないという状態を知っている。死の虚無は未知でもなんでもない。
「江戸時代に自分が生きていなかったことが、恐ろしくて恐ろしくてたまらない」という人だけが、将来に自分が存在しないことを恐怖する資格を持つ。
そうでないならば、死の虚無への恐怖は偽りであり、錯覚であり、嘘であり、間違いである。
もう少し詳しく説明しよう。
物理学的真理として、過去と未来は同じものである。これは時間の一様性、対称性として知られる物理学の根本原理だ。
エネルギー保存則という自然界の大原則も、この時間の対称性から導かれる。
最新の量子物理学でも、相対性理論でも、この原理は覆らない。
過去と未来は同じであるから、数百年前に私が存在しないことも、数百年後に私が存在しないことと同じである。
この点について異論はありえない。誰も宇宙の真理に逆らうことは出来ないのだから。
これを否定することは、時間の一様性とそれから導出されるエネルギー保存則を否定することに等しい。
もしこの点に反対したい人がいれば、私にではなく世界に訴えるべきである。
その無謀な訴えが認められれば、ノーベル賞を100個もらってもお釣りが来るくらいの大発見だ。
ノーベル賞を取れる自信がないならば、おとなしく私の説明を受け入れていただきたい。
争点とすべきなのは、この真理をどのように解釈するかである。
ここにいる自分が消えてなくなり、思考も意思もない状態になるというのは、絶対に自分で経験できない死後の未来の出来事であるが故に恐ろしい。
将来にやりたいことができなくなるというのは②の恐怖であるから、ここには含めない。
厳密に自分が虚無に返る事だけの恐怖を考えたとき、その恐ろしさは、ただひたすらに「誰もが経験するのに、誰もが語ることの出来ない圧倒的未知」に由来する。
だが、私たちは過去に自分が存在していないことは既に知っている。そして、それを微塵も恐れてはいない。
はるか昔の過去に自分が存在していないのは当然のことだと思っている。ならば、過去と未来は等しいが故に、未来に私たちが存在していないことも当然と思わなくてはいけない。
悠久の長い時間のわずかな一瞬のみに私たち一人一人は存在している。無限の過去と無限の未来に自分は存在しない。それなのに、無限の過去の虚無を恐れず、無限の未来の虚無のみを恐れるのは不合理だ。
故に私は死の虚無を恐れることを迷妄と断罪する。
以上が、死の虚無を恐れる必要がない理由である。
私は最初にこのことに気が付いたとき、この発見を他人と共有したくなり、誰彼となく話して回った。
私は誰もが私の話に共感し、喜んでくれるものと信じて疑わなかった。
だが現実はそうならなかった。
この話を聞かされた誰もが、私の予想に反して「お前は何を言っているんだ?」という顔をした。
実際に言われたこともある。
狂人を見るかのような目で、ドン引きする人もいた。
「へぇー、そうですか」とか「お……、おう!」とか言って、視線をそらし、私と距離を置く。
私はがっかりした。そして、思った。
理解されなかったのは、真剣に考慮されなかったからだと。
これから死ぬ人ならば、もっときちんと私の話に耳を傾け、この発見に賛同してくれるはずだ。
そこで私は、これから死ぬ人に対して3つの死の恐怖を語り、少なくとも3番目は恐れる必要はないと説いてみた。
結果は散々だった。
ある人は侮辱されたと怒り、ある人は脅迫されたと怯え、ある人は何故か泣き叫び、ある人はすぐに死んでしまった。
これに懲りた私は、この話を他人にしなくなった。
しかし、ネットの広い世界ならば、私の発見に救いを見出す人もいるかもしれないと考え、久しぶりに説いてみることにした。
よって皆様におかれては、死ぬ時には何の恐れもなく虚無に返っていただければ幸いであります。