【社会】石井一氏が外交というものを理解していない件について
君主が軽蔑されるのは無節操、軽薄、軟弱、臆病、優柔不断と見られる場合である。君主はあたかも暗礁を警戒するように、このように見られないように用心しなければならない。
そのためには行動にあたって偉大さ、勇気、威厳、堅忍不抜さが見られるようにし、個々の臣民の取り扱いに際しては自らの決定が撤回不可能であることを知らしめるべきである。
ここ1週間ほど、私は体調不良で静養生活をしている。
することもなく、ラジオでニュースを聞いていたところ、民主党の石井一氏が北朝鮮に拉致された家族は既に死亡していると発言したという一件を知った。
石井氏は周囲から発言を批判されるも、事実は事実と主張し、自分の発言を撤回するつもりは全くないようだ。
石井氏は、外交や交渉というのが分かっていない人物だと私は思った。
石井氏の発言は事実かもしれない。だが、ここでそれを言うメリットは何もない。
誰だって本当は既に拉致被害者は死んでいるかもしれないと思っている。その可能性を考えていない人は、よほど脳天気な人物なのだろう。
それでも「拉致被害者は全員生きている」という外交的フィクションを貫き通すことには意味がある。
本当に拉致被害者が死んでいたとしたら、日本が「拉致被害者は全員生きている」という前提を崩さないのは、北朝鮮にとっては理不尽な要求以外の何ものでもないだろう。
だが、外交は正直に正論だけを積み上げて行うものではない。誠実さと理不尽のバランスを取って行うものだ。要は相手から軽く見られないように努めることが肝心だ。
私たちに慣れ親しんだ言葉を使えば「なめられたら、終わり」なのである。
その強硬姿勢が、北朝鮮を交渉のテーブルにつかせるのを邪魔していたという批判もあった。
だから北朝鮮が拉致被害者の調査をすると言う前ならば、「拉致被害者は全員生きているとは限らない」という路線に変更して、北朝鮮を交渉の場に引っ張る戦略も有効だったかもしれない。
しかし、既に北朝鮮は交渉の場に出ている。
ならば、ここで切る唯一絶対のカードは「拉致被害者は全員生きている」以外にはありえない。
「拉致被害者は全員生きている」ということを主張すると、以下のメリットがある。
本当に拉致被害者が生きていれば、北朝鮮は拉致被害者を日本の主張通りに差し出しやすくなる。
本当に拉致被害者が死んでいれば、北朝鮮は日本が納得できるだけの強力な証拠を提出する必要に迫られる。
それに対して、「拉致被害者は死んでいる」と主張すると、以下のデメリットがある。
本当に拉致被害者が生きていても、北朝鮮は返したくない拉致被害者を日本の主張通りに死んだことにしてしまえばいい。
本当に拉致被害者が死んでいれば、北朝鮮はいい加減な証拠を提出して「日本側でも言っていた通り、実際に死んでいました」と言えば済んでしまう。
だが納得できるだけの証拠もなく、期待していた拉致被害者の生存が叶わなかった日本国民は大いに落胆し、安倍政権の支持率を下げるだろう。
民主党の石井氏がそこまで考えて、日本国民の心を傷つけてでも安倍政権の支持率を下げたいと企んでいるならば誉めてもいいが、単に何も考えていない可能性のほうが高いと思われる、
外交においては、相手に楽をさせないようにすることが大事である。相手を真剣にさせる必要がある。 そのためには事実がどうであろうと、「拉致被害者は全員生きている」という理不尽を強く主張することが唯一の正解だ。
「僕は本当のこと言ってるだけだもん。本当のこと言って何が悪いの~?」という態度を取ることの弊害が理解できない石井氏は、人間としては正直者なのかもしれないが、政治には向かない人物である。
この外交上の悪手を挽回するには、石井氏にはお気の毒だが、石井氏を無知蒙昧の妄言老人として徹底的に罵倒することで、日本はこのようなモウロクした愚か者には一切組していないということを強くアピールすることが肝要であろう。