叶鋼は午前1時に計算をする

電子工作と計算の記録

選挙とは独裁者を選ぶ手続きである

国家の価値は、結局それを構成する個人個人の価値である。

ミル

4年前のことだ。私の知人は民主党に不満を持っていた。彼は言った。

 

「国民は選挙で民主党を選んでしまったから、彼らがひどい政治をしても甘い顔をしているのだ。国民は勇気を以って間違いを認め、民主党を政権から降ろすべきだ」

 

彼は民主主義について、根本的な思い違いをしていると私は思った。

民衆がいつでも好きに政治家を選べるのが民主主義ではない。

 

いつの時代、どこの国でも、民衆は政治に容易く介入することを許されない。

そして、民主主義だろうと共産主義だろうと、全ての政治は独裁であり、全ての政治家は独裁者であり、全ての国家は独裁国家である。

独裁は、民衆の一存で変えられるようなものではない。

 

ただ一つだけ、民主主義国家に他の独裁国家と違う点があるとするならば、数年に一度だけ、選挙を通して独裁者を交代させることができるという点である。

選挙が終われば、民主主義国家と言えども、また普通の独裁国家に戻るだけだ。

 

ここで「独裁」と言えば聞こえは悪いが、これは何も悪いことではない。

政治とは時として国民の意に沿わないことを行い、国民の熱狂に巻き込まれずに冷徹な判断をしないといけない。

国民の一喜一憂で政治が迷走しては、安定した国家運営は行えない。

 

たとえば、戦前の日本。

選挙で選ばれたことが政権を握る大義名分として機能しなくなった結果、政治は「民衆の声」を大義名分とする軍部に支配された。

そして対外強行を支持する国民の声に押されて、多くの現実的な政治家の戦争不拡大路線と真逆の拡大路線に流されてしまった。

当時の日本が、民衆の声を無視できるほどの独裁国家だったならば、戦争は回避できただろう。

 

たとえば、現在の中国。

選挙がない中国では、「徳政をもって大衆に支持されている」ことだけが政権を正当化する理由になる。

だから共産党政府は過剰に国民の声に怯え、時に激しく弾圧し、時に激しく追従する。

中国が本当に安定した独裁国家ならば、政権批判も許すし、尖閣問題では民衆の反日感情を無視して妥協的な領土外交をしていたことだろう。

 

まったくもって逆説的なことながら、安定した独裁国家では言論の自由が守られ、融和的な外交が行われ、独裁力の弱い国家では言論弾圧と強圧的な外交が行われるのである。

 

当時の民主党について言えば、既に選挙で彼らを選んだ以上、政権を任されている期間に限定して、彼らには周囲の声に捉われず自分たちの信じる道を進む権利と義務がある。

 

選挙で民主党が選ばれたならば、彼らが自分たちの想像していたのと同じか違うかに関係なく、また自分が彼らに投票したか否かにも関係なく、国民総意で選んだ独裁者様として尊重せざるをえない。

選んだことを後で後悔するくらいならば、はじめから慎重に選べばよかったのだ。

また、自分の支持する党や政治家が選ばれなかったから反抗するというのでは、選挙を行う意味がない。

投票することと投票結果を受け入れることが民主主義の基本だ。

 

思っていたのと違うからという理由で、私たちが安易に彼らの道を塞ぐことはできない。

もちろん批判をするのは自由だが、その批判を聞くも聞かないも政治家の自由であり、批判に政権を変えるほどの力はない。

選挙だけが政権を変える力を持つ。

 

どうしても私たちが民主党に思うところがあり我慢ならないのならば、その思いは次の選挙のときに叩きつければいいのだ。

そして、現実にその後の選挙において、民主党は国民の思うところを叩きつけられて惨敗した。

 

さて、明日もまた選挙が行われる。

皆様におかれては、明日、投票用紙を目の前にした時、それが新しい独裁者を選ぶ手続きだということの重大性を思い出していただければ幸いである。